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設立40周年記念特集1
設立ドキュメント「広告に真実を」 高い意識と数多の奮闘に支えられたJARO設立

千葉ちよゑ

フリーライター

苦情審査の開始

広告への苦情申立ては、秋口から寄せられ始めた。

苦情審査のシステムづくりに携わった小野桂之介(慶應義塾大学助教授)の回想によれば、「初の苦情到着に目を輝かせて意見をぶつけ合った」とのこと。

社団法人設立前の期間を含む8月30日~翌年3月末の1974年度の苦情処理件数は37件だった。内容は「誇大広告」が最多の11件、ついで「コピーの不明確・不正確」6件が続いた。業種別では不動産に関する苦情が約3分の1を占めていた。

例えば――。

「『新宿まで37分で通勤可能』という新聞広告は間違いである」といった苦情が寄せられた。調べてみると、指摘のとおりである。

JAROは「JAROレポート」で会員各社に注意するとともに、首都圏宅地建物公正取引協議会(現首都圏不動産公正取引協議会)に連絡。同協議会も動き出した。

効果は大きく、以後、「ラッシュ時は50分。新百合ヶ丘駅で急行に乗り換え」などと新聞各紙の広告に記されるようになった。

また、1975年5月発行の「JARO REPORT」に掲載された「テレビCMに細心の配慮を」という記事では、「子どもの教育上好ましくない」「不快な印象を与える」といった苦情や問い合わせの増加が紹介されている。

このようなものである。
「CMソングに子どもの名前が歌い込まれているため、幼稚園で友達にはやされて困る」
「お相撲さんが手づかみで練り製品を食べるCMは、子どもがまねをして困る」
「暗がりの中、背中を向けて正座した男性と『あの時、雨が降っていなかったら』というナレーションが流れるCMが脅迫感を与え不快」

ちなみに、翌1975年度の苦情は145件、問い合わせ112件であった。

社会的責任に応える広告へ

組織づくりと併行して、会員を募集増強し、財務面で機構の運営を支えることも急務である。

創設間もない1974年10月末に257社だった会員は、翌年9月末には388社に増加。極めて順調に推移していった。

これには、広告界の協力や事務局の努力もさることながら、時代の後押しも大きかったのではないか。

第一次石油ショック後の1974年、75年と、広告費は2年連続のマイナス成長となり、76年にようやく上向きに転じた。そして、総広告費の伸びが、国民総生産の伸びを上回る年度が続いていく。

これは、引き続く不況の中で低迷する消費マインドを喚起するために払われた企業努力の反映でもあったろう。

より社会変化との調和・調整を見出そうとする社会志向型のソーシャルマーケティングの視点に立った広告活動、すなわち社会的責任に応え得る広告活動への転換が図られつつあった。

JAROの活動開始は、この環境変化への道標の一つともなった。

それが、知恵を傾け、汗を惜しまず奮闘した人々の礎のもとに築かれたことを付しておきたい。

〈終〉

『JARO 10年の歩み』

◎参考文献

『JARO 10年の歩み』朝日新聞東京本社朝日出版サービス 編集・制作、日本広告審査機構10周年記念事業小委員会発行、1984年
『REPORT JARO』日本広告審査機構発行、1975.2-1976.6
『アメリカBBB調査団報告書』BBB調査団本部発行、1970年

千葉ちよゑ

岩手県釜石市出身。会社案内等を制作する会社勤務をへて、フリーランスのライター兼編集者に。千葉県長柄町で田舎暮らし歴5年超。