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設立40周年記念特集1
設立ドキュメント「広告に真実を」 高い意識と数多の奮闘に支えられたJARO設立
設立総会
年21回に及ぶ委員会、徹夜続きの設立作業
1974年6月10日、日本広告審査機構設立発起人会が、東京都千代田区の東京会館で開催された。
この年、発起人会の実施に向けて開催された各種委員会は21回に及んでいた。
各委員会の開催頻度が高まったことで、設立準備事務局はその準備・事後処理、関係各方面との折衝などで大忙し、ネコの手も借りたい毎日となった。
事務局は、1月から東京都中央区のコチワビル4階で業務を始めていた。夜間は入口を閉鎖するビルで、仕事が夜にかかってしまうと、ビルの管理人にカギを開けてもらわないと帰れない。
最初のうちは「大変ですね」と言って、眠い眼をこすりながらドアを開けてくれていた管理人も、連夜となると「10時半までにはビルを出てください。それより遅くなるのでしたら、朝までビルの中にいてください」に。
担当の事務局職員だった保科清治(博報堂より出向)は
「仕方なく事務局で仕事を続け、疲れると屋上に出てひと休み。そのうちに東の空が白みはじめ、新聞配達などの人が動き出す。――当時はこれが日課のようになっていた」。
中曽根通産大臣の出席
JARO設立総会(1974.8.28)
そして8月28日、ついに設立総会の日を迎える。東京会館に、加入会員約110社、協力機関約150団体の代表者約300人が参加して開催された。
議長に河口静雄設立準備委員長が選任され、就任の挨拶をした後、日本広告審査機構設立の趣旨と経過が説明された。
次いで、来賓の中曽根康弘通商産業大臣、永野重雄日本商工会議所会頭、米国NARB(National Advertising Review Board、全国広告審査委員会)のベニー・L・カス運営委員が祝辞を述べた。米国NARBは、日本の自主規制センター確立に大きな影響を及ぼした組織である。
中曽根大臣の出席は、朝日新聞社から設立準備委員会に来ていた瀬戸丈水(後に朝日新聞社北海道支社長)が、中曽根大臣とは旧知の間という同社専務からアポイントの電話を入れてもらい、依頼したものである。
瀬戸によれば、中曽根大臣に「ぜひ…」と話すと、「分かった。今のところ予定はないからできるだけ出席しましょう」との返事だったという。
設立総会への欠席を伝えていた通商産業省の局長や部長が、「出席に変更してほしい」と言ってきたのは、その直後だった。
異例のスピード許可
JAROは、1974年10月15日付で内閣総理大臣および通商産業大臣名で、社団法人設立を許可する旨の通知を得た。
実は、通商産業省に設立許可申請書を提出したのは10月9日。1週間にも満たない異例のスピードでの許可だった。
その理由は二つある。
一つは、行政が協力してくれたことである。
前出の瀬戸は、通商産業省への申請書提出時に「いつまでに許可が欲しいか」と聞かれ、無理と思いながらも「10月15日」と答えた。係官は、その日に間に合わせるため、書類を持ち、所管の総理府と通商産業省を走るようにして判をもらって回ったそうである。
もう一つは、許可申請のための準備が完全だったことである。申請書類の中で最も重要な定款づくりに時間をかけ、徹底的に審議した。
瀬戸は、定款づくりも担当。定款を問題なくパスさせるため、通商産業省で20年以上定款審査に当たってきたベテラン事務官の柳 彰らに、役所の仕事が終わってから見てもらうことにした。
簡単に済むと思っていたところ、暑いさなか、3日間の徹夜作業となった。主務所管が内閣総理大臣および通商産業大臣であり、同様の前例がなかったためのようだ。
柳ら通商産業省の2人と、瀬戸を含む設立準備事務局の3人、計5人がホテルに集合。毎度、明け方までステテコ姿で議論した。
柳にとっても、この定款づくりは終生忘れられない思い出の一つとなった。
柳は、こんな会話で互いの労をねぎらったことを回想文に記している。
機構側「官庁提出書でこれほど加除訂正されたのは初めて(笑)」「記念撮影のため、徹夜情景を再現しようか」
通産側「靴下脱いでノータイ、鉢巻姿はとも角、あの真剣さと迫力は(笑)」