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不当表示事件とJARO設立 法規制と自主規制の必要性
広告業界の広告規制法案に対する反対と了解
広告業界は、この法案作成の初期段階において、「同法案は広告規制法である」として反対の立場を採り、自民党政調会にもその方向で働き掛けていた。しかし、公取委の後藤英輔取引課長が電通の吉田秀雄社長と会って懇談し、同法案が広告の自主規制を基盤とした米国法を参考にした法案であり、広告業界も広告の自主規制ができる環境を整備する必要があることを説明して納得され、自民党も反対しないことにしたと聞いている。
確かに、同法案の不当表示規制は、自由私企業体制の下で広告活動が最も活発に発展している米国の広告規制を参考にしており、このことが理解されて法案が国会に提出されている。公取委の佐藤基委員長(1959~1962)は法案の作成に熱心であった。
国会審議においては、主婦連合会が高田ゆり副会長、中村紀伊事務局長や、日本生活協同組合連合会などの消費者団体が活発に運動した。自民党は消極的であったが、社会党の田中武雄議員や板川正吾議員が積極的に支持し、主婦連合会の奥むめを会長が参議院議員(緑風会会長)として田中角栄幹事長や佐藤栄作通産大臣を説得されるなど活動し、法案は1962年5月4日に国会を通過した。私はにせ牛缶問題以来、主婦連合会とは関係があったので、奥会長からはしばしば呼ばれて同法案について説明した。
景品表示法の施行
産経新聞(1966.5.1)
※事務局注:右から3番目が筆者の伊従氏
景品表示法の施行後は、不当表示関係では当時、宅地建物取引でぎまん的広告が横行しており、その規制が重要であった。
「駅から十分」と大書した宅地広告(チラシ)について、これは「駅からじゅうぶん」の距離と答えるという例もあり、不動産広告の内容は誰も信用せず、悪徳不動産屋と非難されていた。○○駅に案内所があるとしながら、多くの場合には対象物件はその駅から自動車で30分ほどかかる辺鄙なところにあり、取引課の担当官は現地調査を行う際、関係不動産屋から暴力を振るわれる危険があって、警察官に同行してもらう場合もあった。
当時の排除命令のほとんどが不動産広告に対するものであったが(1962年度以降、年度ごとに8件、4件、14件、14件)、公取委は公正競争規約の設定に注力し、宅地建物取引関係の公正競争規約は1963年6月に首都圏が認定され、同年12月に近畿地区の規約が認定されている(現在では統一されている)。
それ以外では、観光土産品に関する規約が1966年2月に認定された。その実施機関である公正取引協議会は日本商工会議所の中に設けられ、会議所の職員が事務をしていた。不当表示の態様は、上げ底、メガネ、額縁、十二単(※)などといわれる過大包装であり、内容量の不当表示であった。当時は旅行に出ると家族や友人に土産を贈るという慣習があり、観光土産品は庶民の重要な買い物だったのである。
※「メガネ」とは眼鏡風の透いて見えるところだけ中身があり、後は空の包装、「十二単」は何枚もの包装紙でくるんで中身は少ない包装。
新設景品表示課は大忙し
景品表示課の新設
1966年4月に取引部取引課から独立して景品表示課が新設され、景品表示法の施行は同課で行われることになった。私はその初代の課長となり、同法の施行に関係した。当時の公取委の北島武雄委員長(65年~67年)、次の山田精一委員長(68年~69年)は、共に消費者の視点が非常に強く緻密な方であり、景品表示法の運用にも熱心であった。
その頃も景品表示課の最大の規制対象は不動産関係の事件であり、規約では不動産と観光土産品の規約が既に設定され、缶詰の規約が設定中であった。
厳正な不動産と観光土産品の規約による規制
産経新聞(1968.1.10)
不動産の規約を見て驚いたことは、不動産業界の民間専門家が消費者の立場に立って作成したため内容が極めて厳密で、素人には分からない細かい点まで配慮されており、規約の運用も厳正に行われていたことであった。
後に、同協議会の会長になった江戸英雄三井不動産社長は、「協議会は利害が対立しやすい多数の個人会社から巨大な会社までの同業者が一緒になってできた団体であるが、不動産会社の顧客である消費者の保護のために皆が一致団結して献身的な活動を行っており、このような立派な団体を見たことがない」と絶賛されたと聞いている。
不動産公正取引協議会は確かに優れた自主規制機関であり、その規約の内容は時代とともに修正されつつ現在でも強力に運用され、媒体企業等も広告審査に利用している。先年、NHKの消費者向け番組で、不動産の表示規約が極めて良心的な消費者側の視点に立った民間の広告表示自主基準であるとして報道されていた。なお、この不動産の規約の作成を担当したのは、現在JAROの審査委員会の委員である田中(鈴木)深雪氏(公取委取引課係長)であった。
一時は悪徳不動産屋といわれることもあった不動産業も、今ではすっかり信頼される業界になったが、これは協議会の地道な努力の結果である。
もう一つの重要な規制対象の観光土産物の不当表示は、対象物の包装を開ければ一見して分かり、また対象品が地方の特産物であるので、全国7カ所の公取委地方事務所で適時に公開試買会を開き、消費者や関係業界の意見を聞いて、その不当性を判断することとしていた。
この過大包装は誰にも分かるものなので、この試買会は地方テレビ局等の報道の対象になり、不当表示規制に関する良い広報活動となった。この場合も民間業界の審査は厳しく、全国観光土産品公正取引協議会会長の門倉国輝コロンバン社長の鋭い審査眼は皆が敬服していた。当時、自主規制が極めて良心的・効果的に行われていたのである。
私はこのような規約を見て、自主規制の重要性を認識した。
排除命令と事前聴聞
景品表示法違反の事件は景品表示課が調査し、排除命令を出す場合には、違反被疑事実を記載した排除命令案を違反被疑事業者に送り、取引部長(1966年当時は柿沼幸一郎部長)が聴聞官となって相手の意見を聞き、その後事件を委員会で審議して排除命令が出されていた。ほとんどの排除命令事件は不動産関係であった。違反に対しては文書または口頭による警告として処理するものが多数あった。
マーガリンに牛の絵
1966年夏ごろ、マーガリンに牛の絵が付いているという情報が行政管理庁(現在の総務省行政管理局・行政評価局)と厚生省から寄せられ、マーガリン工業会に是正を求め規約の締結を勧めた。
しかし、牛の絵はやめるものの、「バターリン」「ミルクマリン」「プラスバター」「コンパウンド(合成)バター」などの商品名の使用は認めてほしいとの関西の事業者の意見が強く、表示連絡会(関係業界・消費者・公取委による不当表示の検討会)で消費者と業界の意見が対立した。
バターリンは和英辞典で「人工バター」となっているとの業界の意見もあり、この点を米国FTCに問い合わせたところ、「米国ではこの名称は違法」との回答を得た。
公取委は、時間が経過するので業界の意見をまとめられない団体とは交渉できず、「規約ができなければ排除命令で是正させる」との方針を示した。
ちょうどその頃、ある新聞社のM記者が公取委に取材に訪れ、マーガリンのカルトン(商品を包む紙箱)が多数机上に置かれているのを見て事件を探知し、突然、社会面のトップ記事で「鯨油製のマーガリンに牛の絵]と大書した半ページの記事が出た。それに驚愕して業界の規約設定が促進され、1967年2月に規約が成立した。